金星の科学

なぜ金星か ---金星を知り, 地球を知る---

今村剛 (JAXA)

ふたたび金星へ

金星は日本では明けの明星、宵の明星と呼ばれ、古来より地域や人種を問わず親しまれてきた天体である。 金星とは気づいていなくても、多くの人が一番星として眺めたことがあるだろう。 太陽と月を除くと金星は全天でもっとも明るい星で、この明るさは金星に差し込む太陽光の78%が厚い雲で跳ね返されることによる (地球ではこの割合は30%である)。 この雲惑星の濃密な大気や、その下に広がる大地は人類の想像力をかきたて、 東西冷戦時代にアメリカと旧ソ連によって競い合うように探査機が送り込まれた。 その後はしばらく探査が途絶えたが、世界の多くの惑星科学者が金星への回帰を訴え続け、 21世紀に入って日本のプラネットCと欧州のビーナスエクスプレスが始動した。

灼熱の惑星

金星は、太陽から約1億820kmの距離(地球−太陽間の0.72倍)のところを公転する地球型惑星、つまり岩石の地面をもつ惑星である。 大きさや密度が地球と同じくらいであるため、金星は地球と似た過程で作られた双子のような惑星であると考えられているが、 その環境は地球とはかなり違っている。 海はなく、大気は地球に比べて乾燥している。 地球で見られるプレートテクトニクス(大陸移動)は今の金星では起こっていないようであるが、地表面は比較的新しく、 数億年前に大規模な火成活動が起こったと考えられている。 大気は主に二酸化炭素からなり、その量がとても多いために地表気圧は90気圧にもなる。 高度60kmあたりには硫酸の雲があり、この雲は地球の雲と違って惑星全体をすき間なくおおっている。 雲は時速400kmという速さで東から西へと流れている。

地表気温は460℃にも達するが、この高温は金星が太陽に近いことが直接的な原因ではない。 金星に届く太陽光は厚い雲によりほとんどがさえぎられて、地表まで届く量は地球の10分の1である。 金星の地表から空を見上げれば、いつも曇り空で、どんよりと暗いだろう。 それにもかかわらず、大気中の大量の二酸化炭素が温室効果によって熱を閉じ込めるために、 わずかな太陽光エネルギーをもとにして効果的に暖まっているのである。 金星は温暖化の究極の姿を見せていると言える。

金星の来た道

金星と地球はともに約46億年前に誕生したと考えられる。 その頃の金星には地球と同様に大量の水があって海が形成されたということはありそうなことである。 しかし地球より少し太陽に近くて暖かかった金星では、水は徐々に水蒸気となって高層大気に運ばれた後、 太陽からの紫外線によって水素と酸素に分解され、少なくとも水素は重力を振り切って宇宙空間に逃げ出してしまったのかもしれない。 そう考える根拠の一つは、金星大気では通常の水素に対する重水素の割合が地球に比べて100倍も大きいことである。 もともと金星の水には地球と同様に、通常の水素に混じってごくわずか重水素が含まれていたが、 通常の水素に比べて重さが2倍の重水素は流出しにくいため、より多く大気に取り残されたのかもしれない。

金星の大気が大量の二酸化炭素を含むのは、このようにして海が失われたせいかもしれない。 地球では二酸化炭素は海に溶け込んだあと炭酸カルシウムとなって沈澱し、地殻に取り込まれるため、大気中での量は小さく抑えられている。 金星ではそのようなしくみが働かないために、二酸化炭素がすべて大気中に残ったのかもしれない。

惑星気象衛星の挑戦

人類がこれまで手にした金星の情報は断片的なものである。 本当に海はあったのか、水や大気成分はどれほど宇宙空間に逃げたのか、どのような火山活動があるのか、気候のしくみはどうなっているのか ——今も肝心なことは謎に包まれている。 金星の環境の成り立ちがわかれば、地球が金星のようにならずにすんだ理由、 地球だけが温暖で湿潤な生命の星になれた理由がもっとよく分かるに違いない。 この確信が、私たちを金星へと駆り立てる。

日本が送り出すプラネットCは、金星の風の謎に迫る世界初の惑星気象衛星である。 金星は243地球日もかけてゆっくりと自転しているが、大気はその60倍(時速400km)もの猛スピードで西向きに流れ、4地球日で金星を1周している。 このような風が金星では生じ、地球では生じないのはなぜなのか? 金星の風の不思議は地球の風の不思議でもある。 この風のメカニズムや、雲が作られるしくみを解明するために、プラネットCは雲の上から下までの大気の運動を3次元的な動画として描き出す。 地球の常識を超えた金星大気の謎が解けるとき、私たちは地球大気を見る新たな視点を獲得していることだろう。